FUKUSHIMA 3.11

2020年3月11日。その日、私は福島にいた...。

と書き始めると、とても重苦しい雰囲気の記事が始まるんではないか、と思ってしまいますが、福島県内全域がまるで鎮魂のために機能停止をしていたわけではなく、ごくごく普通の1日があった、というお話です。ドキュメンタリーチックにお届けします。

3月10日 午後10時00分 郡山市郡山駅

前日の夕方、急遽セッティングされた打ち合わせに参加し、更に障害対応の依頼が入ってしまったために夜遅くまで仕事をすることになってしまい、ホテルの部屋に戻って風呂に入り、食事と晩酌を軽く済ませるために外に出たのが10時頃。

街は閑散としているが、火曜日の夜。まだサラリーマンたちの宴は続いているようで、店に入れば男たちの騒がしい怒声や女たちの嬌声も聞こえてくる。当てにしていたいつもの居酒屋は客の入りが少なかったからか(ただし、いつも客は大して入っていない)もう閉まっていて、軽くラーメンを食い、コンビニでチューハイとつまみを買って部屋呑みと洒落込み、いつの間にか寝落ちしていたらしい。

3月11日 午前8時 郡山市郡山駅

目覚ましは掛けていたが、二度寝をしたようで、起きたのは7時半。仕事の現場はここから車で1時間かかる田村市都路エリア。ホテルのチェックアウトの準備もしなければならず、朝からバタバタ。テレビのニュースでは、全国版の放送では「震災から9年」とずっと言っているが、福島版のニュースはトップこそ震災ネタだったがほとんどがコロナウィルス関連。震災が風化したのではなく、今そこにある脅威に対する対策が大切なのだ。

チェックアウトをして外に出たのが午前8時ちょっと過ぎ。いつもより10分ほど遅くなってしまった。だからかどうかはわからないが、いつもは混んでいる幹線道路も心なしかクルマの量が少なく渋滞していなかった。

3月11日 午前9時15分 田村市都路 オフィス内

道中混むこともなく、かと言ってすれ違うクルマは少なくなくいつも通り、普段通りの「通勤」ルート。契約では9時~5時までとなっている業務委託内容だが、それほど厳密ではなく、最終日で成果物はある程度出ている状態なので15分遅れでの到着でもお咎めなし。委託先オフィスの席に座って少しすると朝礼が始まる。

今日が何の日であるか、知ってか知らずかそのことには何一つ触れることなく、いつも通りの朝礼だ。午後から来客ラッシュらしい。私は特に今日の予定がないことを報告すると、隣の社員から「じゃいままで忙しくてできていなかったネットワーク機器の設定をいろいろとお願いしちゃっていいかな?」と頼まれ、今日の業務はネットワーク機器設定に決定。

3月11日 午後12時30分 田村市都路 食事処

午前中の仕事がだいたい終わり、隣の社員から食事に誘われ、クルマで10分ほどの食事処に着いたのが12時半ごろ。なんでも「都路の情報集積基地みたいなもん」らしいその食事処に行くと、大変な賑わい。地元の人たちだけでなく、地元企業にインターンとして入っている大学生や、更にはインターンを終えてこの春大学を卒業するという子たちまでもが入れ代わり立ち代わり。

なるほど大盛況、と思っていたが、どうやらお店の切り盛りは女将さんとパートのおばちゃんたち3人くらいで回しているようで、料理を頼んでもしばらく出てこない。のんびり食事が出てくるのを待ち、出てきたメシはデフォルトで特盛のけんちんうどん。福島の人たちはどうやら大食らいが多いのか、食事を頼むとこれでもかとおもてなしをしてくれる。食事を終えて社に戻ったのはもう午後2時。

3月11日 午後2時46分 田村市都路 オフィス内

社に戻ると社員さんが知り合いに頼んでいたというネットワーク機器をちょうど届けに来てくださっていて、早速作業開始。その方たちも含め、午後はずっと来客の予定が詰まっており、4組くらいが入れ代わり立ち代わり社員たちを訪れている。

そんな中2時46分を迎えるが、着席したまま黙とうをするでもなく、黙々とみな自分の仕事をやっている。私はネットワーク機器の設定を、隣の社員は社長とともにお客様と打ち合わせ、別の社員も別のお客様とオフィス内の視察、オフィスに残されているインターンの大学生スタッフたちも翌々日に控えた成果発表会のプレゼン資料作成に余念がない。

3月11日 午後5時30分 田村市都路 オフィス駐車場

その後、社員の打ち合わせが長引いて、打ち合わせが終わったのが5時半ちょっと前。軽いご挨拶をして外に出る。午前中から昼食を終えて帰ってくるまではずっと日差しもあってぽかぽか陽気だったのだが、4時過ぎ位に一瞬雨が降り、クルマが濡れていた。

この時間から帰ると東京八王子着はおそらく早くて9時半、遅くて10時半~11時だ。

3月11日 午後7時 平田村 道の駅ひらた駐車場

田村市都路からは、いったん小野村に出てあぶくま高原道路の終点小野ICから、あぶくま高原道路経由で東北道に抜ければ圏央道にたどり着く。道すがらずっと福島県内の民放ラジオを車内で流していたのだが、震災から9年という話題ももちろん出るが、やはりコロナウィルス関連ニュースのほうが多い。福島県内の高校球児が出場予定であった2020年センバツ高校野球の中止が決まったというニュースはやはり衝撃であっただろう。

営業的に言えば「近くに来たので寄ってみました」をやろうと思ってノーアポで先月仕事でお世話になった道の駅ひらたのオフィスを訪問してみるが、すでにスタッフ全員が帰宅していたようなので早々に退散。まだラジオは福島の民放ラジオを聞き続けている。

3月11日 午後8時 栃木県 東北道上り線車内

東北道那須高原SAを過ぎるともう福島のラジオは聞こえなくなる。代わりに栃木のローカル放送局にチャンネルを合わせてみると、地元の専門学校生が制作協力をしているという、ユルい感じの番組が流れてきた。なんとなく「いつもの感じ」。こういうパターンのコンテンツっていいよね、と思う。

3月11日 午後9時 埼玉県 圏央道内回り線車内

埼玉県内にはローカル局がないので、普段聞くキー局を聞くことになるが、NHKに合わせると「福島原発事故から9年」という特集が。平田村にしても田村市都路にしても、震災での被害はそれほどなかったにも拘わらず、平田村では風評被害が発生し、都路では全域一時避難を余儀なくされ、産業の継続性を一時的に奪われたという経緯があるということは仕事のヒアリングをしている中で聞いている。

もちろん、そうやって自身がしている仕事ができなくなってしまった時の保証はされていいだろう。徐々に避難区域が縮小され、2020/3/10には帰宅困難区域と呼ばれるエリアでは初めての避難区域が解除されたりもしているが、自宅にも帰れず、自宅で仕事をしていた人たち(農家など)は最大限保証されていい。

だが、保証金を手に仕事をするでもなく、日がな一日パチンコにふけっている人たちも少なからず存在するとも聞いた。仕事をしなくても金が入るのだから何をしようと自由だとは思うが、何もできないのと何もしないのとでは意味が違う。

そんなことが脳裏に浮かんだ直後、番組のパネラーが「震災の保証に詳しい専門家」であることを知り、即座にチャンネルを変える。

3月11日 午後9時45分 東京都あきる野市 圏央道あきる野IC出口

アイドルだの声優だの、文化放送はいつからこんなにサブカル感が満載だったのだろう。NHKから変えた文化放送が正解だったかどうかはわからないが、少なくともいやな気分にはならない文化放送の方が正解だっただろう。八王子JCTから最寄りの八王子西ICあたりまでずっと渋滞しているらしいので、あきる野ICで降りて自宅に向かうことにする。

2011年の3月11日のこの時間、たぶん調布とか府中とかのあたりを歩いていたんじゃなかったかな。調布の手前で一緒に歩いて帰ることを選んだ部下と別れ、その先は一人で黙々と歩いていたんだっけ。 周りでは震災で死者や行方不明者が出たわけでもないし、ましてや良く分からない物体(放射能)や津波のせいで家を追われて避難することもなく、ただ交通機関が全停止してパニックになっただけだったので、地震は怖い、以上の印象はいまだにないけれど、それよりあんなパニック状態になっても仕事ができて、メシも食える(≒稼げる)ようになりたい、と思ったのはこの時だった。

「震災からの復興」という言葉は福島にいるときにずっと聞こえてきた言葉だった。だが、自分が立たなければ立ち上がることはできない。他人ができることは手を差し伸べることだけだが、どんなに手を差し伸べても立ち上がろうとしなければどんなに手助けをしても立ち上がることなんてできないのだ。自分で立ち上がる足があるのにもかかわらず、立ち上がろうとせずに人にばかり頼ろうとする、そんな人は世の中にごまんといる。

足がないのに自分で立ち上がろうとしている人たちだっているし、そういう人たちも福島で見てきたし、実際にお会いして仕事をしてきた。そういう人たちとの出会いはすごく大切だし、今後の仕事にもつながるだろう。何よりそういう強い人たちは自分に対して勇気を与えてくれもするのだ。自分ができることで何か支えになれば、と思って仕事をさせてもらっていた。

3月12日 午後4時 東京都八王子市 自宅オフィス

それでも昨夜は10時ちょっと過ぎくらいに帰宅、風呂に入ってチューハイをひっかけて、寝たのは11時過ぎ。昼過ぎくらいまでずっと書類やらメールやらの整理と問い合わせなどをし、昼メシを食いに出た先のコンビニでみた新聞の記事(「復興への祈り」とかそんな見出し)が引っかかって、実際に福島県内にいた人間として、とある地域のドキュメントを書いてみたいな、と思いたち、こんなネタ系の投稿記事を書いてみた次第。


お気づきの方もおられるかとは思いますが、私は福島県の「中通り」地域、更に言えば「県中エリア」で仕事をしていました。地震原発事故の直接被害よりも、二次被害の方がはるかにひどかったのだろうとは推測をしています。でも、震災の前はどうだったのか、ということは(県内外の)ほとんどの人たちが見て見ぬふりをしているように思えてなりません。

そもそも「復興」という言葉を使っていますが、再び盛り上げるという意味を持っているこの言葉、果たして震災前の被災地は盛り上がっていたのでしょうか。ここで地域ごとの検証をするのは筋違いかと思いますので止めておきますが、何でもかんでも「復興」と言えば大義名分が出来上がるという風潮、被害者だからいつまでも補償をされるべきだという風潮が名ばかりの「復興」となり、県内外からの善意がその「復興」支援という形で搾取されてしまうことは危惧しています。

私はそういう意味で、「復興」というプログラムの一つに乗っかってはみたのですが、復興と言うことを意識せずに単なる技術支援という体で仕事をしてきたつもりでいます。復興のその次へ。自然とこの言葉が福島を含む震災の被害地域、ひいては被害者自身が言えるようになれば自然と「復興」が進んでいくのではないのかな、と、動く福島の今に触れながら感じました。