「三方良し」のビジネスを考える

たまたま滋賀県のお客さまとご縁があって、ずっと仕事をしているのだが、無意識のうちに「三方良し」の精神を感じることがある。

いわゆる「近江商人(発祥)のビジネス思想」であると言われていて、さらにはCSR(企業の社会的責任)にもつながる考え方とも言われている。

kotobank.jp

私自身は滋賀・近江との接点は全くないのだが、「ビジネス」という点で三方良しの概念はなんとなく腑に落ちているところもあり、「こうあるべき」と言うよりは、「そんなもんだよね」程度にアタマの片隅に置いてある。

難しく「三方良し」を考える

売り手・買い手・世間の「三方」が満足できるようにする、と言うのが「三方良し」の考え方である。

本当はこれだけでいいんじゃね?難しく考えなくてもよくね?という気もするのだが、あちこちで小難しく論じられているテーマなので、まずは小難しく考えてみる。

「ビジネス」はそもそも利益を出すことこそが至上であり是である、と思っているし、そうでなければビジネスは成り立たない。利益があるからビジネスを続けるための原資が生まれるのだから。

だからこそ、利益を上げるためにいろんなことを考えなければいけない。モノを売るなら安く仕入れて高く売る。これが基本である。

ただし、モノを売る相手(買い手)にとって、その商品が本当に必要なものなのか、そして、その値段で買ってもよいと思えるものなのか、ということを考えずに、ただ売り手(ビジネスを運営している人)の利益のみを優先していては、買い手にしてみればその商品を購入するきっかけにはなり得ない。

ここで「マーケティング」の目線を入れてしまうと少し話が複雑になる*1ので、純粋に買い手にとってのメリット(「良し」)を考えると、買い手も予算や可処分所得などがあり、どうしても「安くていいモノ」を手に入れたいと考えるし、それがメリットになるはずなのだ。

売り手は高い利益を出したい。買い手は安く買いたい。売っているモノに対しての売り手・買い手の考え方の違いがあり、結局はどちらかが妥協する、という形を取ってしまうことが多いのだろう。

ここまでは、ビジネスを売り手・買い手の2者の関係性で考えているが、では世間(社会)にとってのメリットとは何か、と言うことを考えてみたい。

が、一口に世間だの社会だのと言っても、どの切り口から考えるべきかが分かりにくい…と言うか、切り口が広くかつ多数あるので、どれ、と絞れないはずだ。

で、いつも小難しい議論はだいたいここで終わるのだ。「あとはご自分でお考え下さい」「ご相談はいつでも受け付けております」的なコンサルネタで終わってしまう。が、私自身は経営コンサルティングをするつもりもないので、持論をぶちまけていこうと思う。

少なくとも、「三方良し」で言うところの「世間」は、売り手から見た「世間・社会」でいいのだ。ニンジンを作って売っている売り手が、オホーツク海カニに思いをはせる必要はない、と言えばいいか。

もちろん関連がない、とは言わないが、例えばニンジン栽培に農薬を使うことでその農薬が土壌に染み込み、それが水と一緒に海に流れ出て、カニが農薬に汚染されてしまう、という大きなストーリーがあっても、それは「風が吹けば桶屋が儲かる」ように感じられるかもしれない*2

そこまで大それたことで社会につながらなくても、無農薬栽培の野菜がおいしい、というストーリーだけで、世間は「おいしい野菜」に辿りつけるのだから、それで十分世間が「良し」ということになるはずだ。

もっと簡単に考えたい

そうは言っても、売り手の利益は確保したいし、買い手も「納得のいく」価格で買ってもらいたいし、社会貢献だってしたい、両立、さらには三方の「鼎立」なんて無理じゃね?となってしまう。

単純に考えても、売り手が利益を確保したいから売価が決まり、その売価でなければ売らない、買えよ、とビジネスをしていれば当然思うわけだ。利益が出せない買値を買い手が提示して*3契約が成立すれば、売り手は利益が出ず、「良し」とはならない。

売り手・買い手の関連性だけを見ると、結局はどちらかが「妥協」することで、なんとなく「良し」としているケースが多いのだろうと思う。だから(売り手は)儲からないし、買い手も納得できないからその売り手からはいずれ離れて行ってしまうことになる。

と言うことは、「妥協」が「良し」から乖離していく一つの要因ではないか、と考えていいはずだ。イマドキの言葉を使っていいかえれば、「妥協」はWin-Winではなく、どちらも負け(Lose-Lose)なのだ。

だったらWin-Winを目指せばいいじゃない、となるが、それが一番難しい。さすがに私自身もビジネスにおいてお客様との関係性がWin-Winになっているか、と言えば微妙だなぁ、とは思うのだけれど、最低限の利益は出せているし、お客様の満足度も高いようなので、多分Win-Winであろう、とは思う。

では、世間(社会)に対しての「良し」はどうか、と言うと、例えばWebアプリケーションを作る仕事において、その成果物を使っている人たち、ECサイトで言えばECサイトの利用者はおそらくこの「世間」に当たるのではないか、と考えられるのだ。

その人たちが満足できている、としたら、作ったWebアプリケーションによって世間が満足する、ということになり、Webアプリケーションを発注した買い手も(ECサイトなら売上が上がるから)満足し、売り手も利益が出ているので満足、という三方良しになる、と言うことになる。

CSR(企業の社会的責任)という側面から見ても、例えばWebアプリケーションを作るのは一体「誰のためなのか」ということを考えると、それを使う人のため、ということになる。ニンジンを作るのは、ニンジンを食べる人、または生き物のため、であり、ニンジンやWebアプリケーションを直接買ってくれる人のためではない。

とすれば、ニンジンを「食べる」人(生き物)、Webアプリケーションを「使う」人のために作り、それぞれの行動主体が「良し」と感じることが企業における社会的な責任なのではないだろうか。

稲盛和夫の言葉

ビジネスにおいての三方良しという言葉に私が違和感を感じなかった理由は、おそらく若い頃に触れた稲森和夫氏のこの言葉のおかげだと思っている。

動機善なりや、私心なかりしか

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誰がこの言葉を教えてくれたか定かではないが*4、自分にとってはビジネスにおける座右の銘の一つになっている。座右の銘、と言うよりは、常にこの言葉を自分自身に問いかけながら仕事をしている。

ちなみに、私自身は特に「稲森イズム」に陶酔しているわけでもないし、これ以外知っている稲盛氏の名言はないし、なぜか稲盛氏の書籍が1冊手元にあるが敢えて読もうと思わない*5

私自身は仕事を受注することが多い仕事なので、仕事の受注を例にとれば、その仕事の内容をまずお客さまから伺って考えるのがこの言葉である。

動機善なりや、つまり、この仕事を受けるにあたって、売り手である自分にとっての動機は「善」、つまり良いものであるか、買い手の仕事をする動機は?そしてその仕事の成果物はどうか?と考えるのである。

すごくわかりやすく言えば、利益より先にその仕事・成果物が社会にどう影響を与えるか、を考える、ということになるのだろう。結果として反社会的な成果物を出し、社会に悪影響を及ぼすような仕事ではないかどうか、ということだ。

仏教的な言葉を使うなら、『得』より先に『徳』を考える、と言うか。

そして、動機が「善」であるなら、次に考えるのは私心なかりしか、である。下心、と言ってもいいだろう。

どちらかと言うと下心は『欲』と言い換えてもいいんだが、どちらかが強い欲や下心を持っていないか、ということを考える。もちろん、ビジネスと言う側面上「儲け」という欲があるのは仕方ないことなのだが、それが強欲でないか、下心が見え透いていないか、ということは考える。

ビジネスの相手である「買い手」に対しても見ることは多いが、まずは自分の態度から考える。モノを作るにあたって最低限の利益は出せるラインで価格提示ができているか、そしてそれだけの価値を提供できるのか、ということをまず考える。

もちろん、ケースによるが、自分にとって新しい技術習得の機会になったり、「経験が積める」だったりの『得』もあるだろうが、それは仕事をすれば付いてくることなので、自分にとっての『得』はそれなりにあればいい、と思っている。

だから先ほどの仏教的な言葉で言うと、このフェーズでは『徳』と『得』は同じくらい大切になってくる。どちらも両立させたい、と思う。そして、『得』のほうが『徳』より大きくならないように、とも考えるわけだ。

お互い(売り手・買い手・世間)に『徳』があり、『得』ができればいい。

余談:Win-Winにならない場合

では、Win-Winにならない場合はどうするのか、ということだが、まずWin-Winではない状態は何か、の整理をしておく。これは「7つの習慣*6」の受け売りであることは先に述べておく。

  • Win-Lose(自分が勝ち/相手は負け)
  • Lose-Win(自分が負け/相手は勝ち)
  • Lose-Lose(どっちも負け)

他にもいくつかパターンはあるのだが、まずこの3つのありがちパターンである。

Win-Lose/Lose-Winのパターンは、どちらかが勝ち、どちらかが負ける、というゼロサムゲームである。あまりこのパターンを採用することはビジネス上では考えにくい。

で、少なくとも日本でありがちなのは、次のLose-Loseパターン、と言われている。お互い負け、という状況は考えにくいかもしれないが、日本では「三方一両損」の落語(または説話)があり、これこそがWin-Winだ、と勘違いしている人も多い気はする。

ja.wikipedia.org

あらすじだけを見れば実際にはWin-Win-Winの関係にあるが、勘違いは「少し損を(お互いに)することで丸く収める」という部分を「妥協」としてとらえる点にある。本来ならもらえるはずのお金が少し減額されたが懐に入ったので良しとする、という「妥協」は、落語における、財布を拾った人・落とした人には実は存在しない(どちらもお金に関しては「一文たりとも受け取る気はねぇ」とうそぶくのだから)。

少なくとも裁定を下した大岡越前については金銭面ではLoseだが、裁定自体は解決したのだからWinであり、本来は手に入るはずのない金が入ってきた、という点では財布の拾い主・落とし主ともにWin、というのが正しい解釈であり、落語として考えても面白いところ(江戸っ子気質の意地の張り合い)なのだ。少なくとも拾い主・落とし主は自分が「損をした」とは思っていない。

自分が損をしてしまってはいけないし、かと言って相手に損失を出させてもいけない、というのがWin-Winであり、「うちも安くしたんだからお宅も少し不具合を被りなさいよ」という考え方はWin-Winではなく、Lose-Loseなのだ。

話を戻すが、第三者である大岡越前が常に何かしてくれるわけではないので、Win-Winになるためには当事者同士の折衝が必要になる。どちらも得になるというポイントが見つかればいいが、そうでなければ妥協をしなくてはいけないのか、という問いに対してコヴィー博士(7つの習慣)では、

  • Win-Win or No Deal(どちらも勝てないなら取引なし)

という選択肢を提示している。要は、お互いにメリットがない(≒損をする)なら取引しない方が損をせずに済む、ということだ。ビジネス上でこの選択はなかなか難しいのだが、私はよくやっている。

例えば、ある仕事の依頼が来たとする。納期もぎりぎり、費用もかつかつ。成果物の希望は費用に見合わない高いレベル。さて受けるかどうか、というよくあるパターンだが、仮にこの案件が受けられたとしても、今後の継続依頼が同じように納期が常にかつかつで、費用もさらに減額を要求されてしまうとしたら、それでもその案件を継続して受けるべきかを迷ってしまう。でも、儲けが出ている間はずっとこの仕事を受けてしまうことになってしまう。

お客さまにどう交渉をしても、すべてのお客さま条件(特に上段で挙げたQCDの条件)を覆せないとしたら、この案件は最初から受けるべきではないだろう。私自身は割と早い段階でこの条件を満たせるかどうかの見極めをするようにしていて、最初はOKだったのに徐々に条件を狭めてきたりするとその時点で契約自体を解除したりもしている。

「もらえるはずのモノ(費用)がもらえない」と思うし、「カネ(利益)が入ってくる以上止める理由がない」と思うだろうが、その仕事をすることでほかの仕事ができなくなる、と考えればどうか。仕事を受けて人的リソースを割くのだから、ほかの(好条件の)仕事を受けたくてもリソース不足で受けられないということにもなりうる。

三方良し以前に、自分(売り手)が疲弊してどうする、という状況だけは避けなければいけない。

三方良しビジネスを続けたい

実際に私がお客さまに提示するモノ(受託案件に限らず)が三方良しでありたいと思うし、そのために私自身に「動機善なりや、私心なかりしか」と問い続けたいと思うのだが、実際にそうなっているかどうかはお客さまがどう思っているのか、にかかっているのだ。

「それなり」に満足をしていただいている、というのはお客さまとのコミュニケーションでもわかるし、逆に満足できていないことも多いという話も聞く。

スキル面で考えればまだまだ足りていないことも多いし、だからこそお客様の満足も「それなり」なんだと思うのだが、だからこそスキルは大切だな、と思う。

そして、お客さまとのコミュニケーションも大切だし、ほかにも大切に思うことはたくさんある。だから、何より自分がお客さまに自信をもって「いいモノが提供できますよ」と言えるようになっていないと三方良しにはなり得ないだろう。そのための精進は欠かさないようにしたい。

*1:どうやって買い手がその商品を買いたいと思わせるか、というテクニックの問題になってしまう

*2:ここでもマーケティングの話をするとややこしくなるので止めておく

*3:そして当たり前だが買い手はそうする

*4:おそらく私の仕事の「師」だと思う

*5:多分稲盛本を一冊くらいは持っていよう、という邪な心があったのだろう

*6:すみませんこれこそが私の座右の書です