モノを減らそうとしています

実はつい先日くらいまで、「仕事の谷間」があり、受注もできずやる仕事もなく、という状態が続いていました*1。手持ちのキャッシュがなくなってしまうので仕事を探すかどうするか、と考えていたのですが、とりあえず手持ちの使わないPC類、特に先日からメインマシンの変更に伴い使わなくなったChromebook/Chromeboxを処分することにしました。ちょうど今(2019/10)、Windows7のサポート期限が迫っている中で、「新しいPC」として売り出し中のChromebook/Chromeboxなので、それなりに高い値段で売れたのはラッキーでした。 そのついでにと、手持ちのいろんなものを処分して(現金化して)いるのですが、自分の「モノを持つ」ことに対するポリシーを仕事に絡めて少し語ってみたいと思います。

「断捨離」ではなく「ミニマリズム

断捨離なる言葉というかムーブメントが流行る数年前くらいから、ミニマリズムという考え方にハマっていたことがあります...、というか、今でも基本的にはミニマリストであろうと思っています。ついでに言うと、実は「断捨離」という言葉、ムーブメントが好きではありません。

ミニマリズム≠断捨離

あまりこの辺りの違いを語ると、宗教論と同じになるので*2、私の捉え方をざっくりと書き記すだけにしますが、「モノが少なくても生きていける」という事象に対して、ミニマリズムはその考え方に過ぎず(だから考え方を実行する人である「Minimal-ist」という言葉が存在する)、断捨離はその方法論またはいち手段に過ぎない、と考えています。Webデザインで最近はシンプルなものが流行っているわけですが、これはミニマリズムという考え方をデザインに取り入れているからであり、断捨離のグルともてはやされているおねえちゃん*3は、あくまでも断捨離の方法論を語っているだけに過ぎないわけです。そしてもう一つ、モノがないことが前提のミニマリズム(これしかなくても生きられる)に対して、モノが『溢れている』ことが断捨離の前提になっている(あふれているから処分をする)という違いはあると思います。

「断捨離」が嫌いな理由

先にミニマリズムという概念を知ったからなのかもしれませんが、(そして事実後発の概念である)断捨離という「考え方」に対して、私自身は相容れないところが多くあり、むしろ嫌悪感すら覚えています。 そもそも、『モノへの執着を捨てる』という意味が理解できないです。『モノへのときめきがあるかどうか』とかもう何が何だか。それっぽいことを言っているように聞こえるのですが、あまりにも抽象的過ぎて響いてきません。むしろアヤシイと思ってしまうわけです。ただ必要のないものを「断ち(遮断して)」「捨てて」「離れる(物理的に・精神的に)」と言いたいわけですが、そこに言い訳が生まれてしまうため、その言い訳を最初からさせないために「執着を捨てる」だの「ときめかないものを捨てる」だのと屁理屈を持ち出しているように私には見えます。必要のないものは言い訳無用で必要ないわけです。まずはそこからスタートすればいいのに*4。 それから、日本人が考えたことだからなのかもしれませんが、『道(どう)』的な考え方になりつつありますよね。茶道とか柔道とかの『道』ね。これも好きになれない理由の一つです*5。流派みたいなのも存在しているし。求道者が目指すところが明確に設定されていて、そしてその目標がまたびっくりするくらい抽象的なわけですよ。ストレスからの解放とか(片づけをしなくてもストレスからは解放されるだろうし、片付けたからと言ってストレスから解放されるとは限らない)、お気に入りに囲まれて過ごすとか(お気に入りという考えはモノへの執着につながるし、それは結局モノを増やすことにつながりかねない)、それっぽいお題目を並べているに過ぎないように感じられるわけです。

ミニマリズムは万能で「正しい」のか

だからと言って、「断捨離がクソでミニマリズムこそが正義だ」と言うのは間違っています。モノを持たないという意味合いでの「ミニマリズム」はアメリカの禅ムーブメントから影響を受けていると言われていますが、禅の世界ではモノへの執着はストレスであり力でもあるわけです。モノへの執着を捨てることはストレスからの解放だけではなく、活力源を断つことにもつながりかねないわけで、だから「モノを持たない」ではなく「最低限のモノを持つ」というスタンスになるわけです。必要であればときめかなかろうが片付いていなかろうが持っていなければいけないし、逆にモノを持つことで活力となるのであれば持てばいいわけです。 モノを少なくすることは、相対的にモノを「持ちすぎている」人に比べれば少ないというだけで、誰よりもモノを持たないわけではない、というのは、ミニマリストでもあった(我が心の師でもある)スティーブ・ジョブズの例を挙げれば十分かと思います。家には家具も何もない、そして来ている服はいつも同じ、というのは有名な話ですが、では本当に何も持っていなかったのか。お金も、(復帰後の)Apple社のCEO時代には年間の報酬が1ドルであったと言われていますが、もちろん他のところできちんと稼いでいたわけです(ピクサー社の報酬がメインらしいです)し、そもそも株も多数持っていたわけで、モノ*6への執着がなかったとは言えませんし、そもそも同じものを着ているというのはある意味執着でもあるわけです。 「モノに対する執着そのものを見直す」ことが禅における一つの考え方であり、結果としてモノが少なくなる状態がミニマリズムであって、結果モノが増えても(ミニマリズムという状態にはならないですが)禅の考え方としては正しいということになるわけです。だからミニマリズムでなくてはいけない、ということでもないわけです。

私とミニマリズムと「禅」

私と「禅」の接点はそれほど多いわけではなく、子供のころに近所の禅寺に泊まり込みの修行体験に行ったとか、親戚の菩提寺禅宗のお寺で法事の時にお坊さんと問答をしたとか、ジョブズが好きで影響されてを読んだとか、その程度です。むしろキリスト教に接している期間がそこそこあって(アメリカでホームステイしていた時に日曜礼拝に行ったことや日本で通っていた大学がプロテスタント系だったなど)、今でこそ菩提寺*7の関係で仏教信仰をしていますが*8、一時期はキリスト教に本格的に入信しようかと思っていたくらいキリスト教への帰依が強かったです。

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

だからというわけではないのでしょうが、日本における「禅」と海外、特にアメリカにおける「Zen」の捉え方の違いをなんとなく感じていて、日本では神仏混交の宗教観もあり*9、さらに仏教すら禅宗であるか否かという別も意識されることがなく、良くも悪くもそれぞれの(神・仏、仏教の宗派ごとに若干異なる)宗教観がごちゃごちゃになっていて、それぞれの突出した要素があまり顔を出さないことが多いのですが、アメリカでは「Zen」という新しい宗教として紹介されていて、日本に比べると深く濃く帰依している人が多く感じます。もちろんキリスト教、特にカトリックですが、深く帰依される方が多いですが、そもそも宗教は生活に密接にかかわるものであり(日本のように空気のようにあいまいにその辺にあるのではなく、厳然と信仰対象として存在する感じ)、だからこそ「Zen」も同じように生活に関わっていて、それがたまたまミニマリズムにつながっていった、というように見えます。 普段の生活で仏教の教えをそれほど守っているわけではないですが、そういう意味では仏教的に、というか日本人の一般的な考え方として「無駄を省く」というシンプルな考え方でミニマリズムを捉えるようにはしています。

仕事に絡めた話...、難しいかとお思いでしょうが。

コーディングの面と、OSの面でちょっとミニマリズムなお話をしてみたいと思います。

ミニマリズム・コーディング

という概念があるわけではないですし、コーディングにおいて必要最低限のことだけを書くというのはミニマリズムでもなんでもなく、わりと当たり前のことだったりします。必要のないコードばかり埋め込んでも(明示的にコードのコメントアウトをするとかいうのでもなければ)単にプログラムが肥大化するだけでいいことは一つもないわけですし。最近はアジャイル開発スタイルを採用する人たちも増えていると聞きますが、テスト駆動開発では「必要のない機能は書かない」としていますから、ある意味ミニマリズムなアプローチだったりするわけです。 ドキュメントについては考え方がいろいろあるようで、例えば設計書をきちんと書くべきだ、という人もいれば、設計書を書くならコード内にコメントを埋め込む方がよい、というアプローチもあったり、それこそテスト駆動開発のようにテストケースが設計と同義になるとかいう面白い*10アプローチもあって、どれが一番ミニマルなのかという判断はできないですが、いずれも「あとで発生する無駄な手間(≒言った言わないという仕様策定に関するトラブル)を減らす」という目的に対する解決方法であり、無駄を減らすミニマリズムという考え方によるものと考えてもいいわけです。

ミニマルなOS

数年前にChromeOS(Chromebook)に興味を持ったのは、「どこまで開発環境をミニマルにできるのか」というテーマがあったからでした。2015年~2016年頃のことですが、直輸入が主でしたがChromebookが一部の好事家*11に紹介され話題になっていて、「これはイケる」と直感して導入、業務にも積極的に使っていきました。普段使いとしてはブラウザ以外の機能が存在しないので、ブラウザで開けないことはできませんが(例えばOfficeのマクロ、VBAは実行できません)、ブラウザで開くことができるのであればOfficeのファイル、WordやPowerpointは開くことができますし、Excelはセルの関数も実行できますし、プログラムもオンラインIDEを使えば書くこともデバッグもできます(CodenvyやCodeAnywhereなど)。 ただ当時の好事家の評価としては、「ブラウザが開けるがインストールするソフトが使えない」だの「Youtube動画を見るだけなら使える」だの、記事の結論としては比較的評価が低かったことを覚えています。私が使っていたように使い方によってはとても使い勝手が良いし、むしろこれから仕事で使うにはこういうのがいいんじゃないのかな、と思っていたのですが*12、つい最近まではマニア向けというかマニアのネタでしかなかったマシンでした。

本題:モノを減らすこと

モノを減らして見えるものなんて倉庫の床くらいだと正直思っています。減らして未来が見えるわけもなし。 ただ、モノがあることで余計なことを考えてしまうことがあるのも事実です。我が家にはPS3があり(買ったのは私です)、最近Nintendo Switchも導入したのですが(こっちを買ったのはヨメです)、PS3のテレビ接続を切ってSwitchに切り替えてしまったので基本的に使えないわけです。でも、PS3のゲームも持っているのでたまには遊びたいし、なんならPS4を買ってもっと面白いゲームしたいよね、と思ってしまうわけです。もしPS3を(所有しているゲーム一式とともに)処分したら、今よりはPS4熱が下がる気はします。PS3を持っているからPS4が欲しいという気持ちは、PS4のゲームがPS3より魅力的だから、という気持ちよりも大きいはずです*13

仕事も普段の生活も、できるだけ少ないリソースで、節約できることは節約し、質素だが貧困ではない生活ができたらなぁ、と思っています。

*1:仕事自体はあったのですが長期案件なのですぐには現金化できないという大人の事情がございましてねぇ...。

*2:エンジニア諸氏であればエディタ戦争と同じだと考えていただいてもよいです。

*3:このねえちゃん好きじゃないんだよなぁ。女性として好みでないのもそうだけど、なんか宗教の匂いがすごく強くて苦手です。

*4:もちろん、人間の「欲」は深いので、結局必要なのかどうかではなく過去の思い入れであったり「もしかしたら」という気持ちが働いて捨てることができないのは明白です。それを潰すためには「執着」「ときめき」という斜め上の考え方をぶつけるしかなかったのでしょう。

*5:「なんとか道」が嫌いというわけではないです。中学生のころに柔道をしていましたし、むしろ慣れた考え方ですが、そういった昔からの『道』とずれているから気持ち悪く感じるのかもしれないですね。

*6:株やら金券をモノというかどうか議論の余地はありそうですが。

*7:ちなみに菩提寺臨済宗南禅寺派、禅寺です。

*8:そしてもちろん日本人らしく正月には神社に参拝しクリスマスにはキリストに感謝してローストチキンを食べます。

*9:加えて儒教的思想も残っているわけですが。

*10:本当にこれは面白い考え方だなぁと思いました。アジャイル的でもあり、テスト内容と設計内容が同じという考え方はウォーターフォール開発におけるV字モデルでも採用されていて、いいとこ取りな考え方だなぁと思っています。現在このアプローチを勉強中です。

*11:ずっと読み方を「こうか」と間違えてました。「こうか」なんですって。

*12:昔のブログでそのネタに少し触れたことはありますが、まぁ誰も読んでくれなかったです。

*13:もちろんPS4のゲームが魅力的であることは否定できません。FF7リメイクとかスゲーやりたいもん。